「平和には戦争以上の力があります。そして、平和には戦争以上の忍耐と努力が必要なんです」

医師でありながら自ら井戸を掘り用水路を作り、荒廃したアフガンに緑を復活させた。
中村哲さんは凄い人だった。
彼の言葉は真実の重みで、胸に突き刺さる。

もう、その言葉を聞けなくなった。かけがえのない人を失ってしまった.....

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アフガニスタンの作業現場でスタッフから説明を受ける中村哲さん(右)=2014年12月(撮影・中原興平)/西日本新聞

西日本新聞 5日 「平和には戦争以上の忍耐と努力が必要」中村哲さんがアフガンで本紙記者に語ったこと
 一切れの肉とジャガイモだけが入ったスープ、ナン、輪切りにした生の大根。ぜいたくとは言えない夕食を前に、中村哲医師はぽつりと言った。「ここでは、形だけの言葉はせからしい。現場を見れば分かりますよ」

 2014年11月。中村さんの活動を通して平和の在り方を見定めたいと考え、アフガニスタンを訪ねた。

 言葉の通りだった。用水路の建設現場に向かう車窓から見えたのは、小麦やかんきつ類の畑、高々と伸びた木々。大勢の子どもたちが、軒を連ねる商店の前を歩いて登校していた。

 一帯はかつて、村ごと移転するほど荒廃していたと聞かされても、信じられなかった。広がる光景のすべてが用水路の恩恵だった。「俺たちも信じられないんだよ」。現地スタッフが片言の英語と手ぶりで懸命に話してくれた。食い詰めて兵士となった経験がある年配の男性は「もう銃を持たなくていい」と、落花生を収穫する手を止めて笑った。

 当時から治安は最悪。中村さんは安全の確保に心を砕きながら、仕事に没頭していた。自由に出歩くことはなく、宿舎と現場を往復するだけの毎日。現場では絶え間なく動いてスタッフに指示して回り、自らショベルカーも操った。傍らにはライフル銃を手にした護衛が常に寄り添い、不測の事態を避けるため夕方前には宿舎に戻った。その後も深夜まで工事の図面を引き、報告書を書いていた。

 娯楽らしい娯楽はなく、食事も毎回、ほぼ同じ質素な献立。異国の辺境でなぜ、そうまでするのか。クラシック音楽が響く中村さんの自室で尋ねた。「私が昔の日本人だからじゃないですか」

 活動の原点は、登山隊の医師としてアフガニスタンとパキスタン国境に赴いた際、治療を懇願する貧しい病人たちに応じられなかったことだ。その後、両国で診療所を開設。さらに、干ばつの影響で次々と命を落とす子どもたちの姿に、かんがい事業を決心した。「義を見てせざるは勇なきなり」。眼前で苦しむ人々に、できる限りのことをしてきただけだという。

 「平和には戦争以上の力があります。そして、平和には戦争以上の忍耐と努力が必要なんです」。子どもでさえ銃を手にする現地に丸腰で臨み、「郷に入っては郷に従え」と地元の文化を敬ってきた中村さんが貫いてきたのは確かに、私たちが大切にしてきた日本の精神に他ならなかった。

 中村さんと最後に会ったのは、一時帰国していた10日ほど前。テロや干ばつの影響が各地で深刻化する中、さらに事業を拡大する計画を語ってくれた。「まだまだやめられませんね」。その言葉の重みは今、私たちに委ねられた。 (中原興平)


....近代化と民主化はしばしば同義である。巨大都市カブールでは、上流層の間で東京やロンドンとさして変わらぬファッションが流行する。見たこともない交通ラッシュ、霞(かすみ)のように街路を覆う排ガス。人権は叫ばれても、街路にうずくまる行倒れや流民たちへの温かい視線は薄れた。泡立つカブール川の汚濁はもはや川とは言えず、両岸はプラスチックごみが堆積する。
 国土を省みぬ無責任な主張、華やかな消費生活への憧れ、終わりのない内戦、襲いかかる温暖化による干ばつ-終末的な世相の中で、アフガニスタンは何を啓示するのか。見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化のさらに彼方(かなた)を見つめる。
    ×   ×
 「アフガンの地で」は、アフガニスタンで復興支援活動を続ける「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表でPMS総院長の中村哲医師(73)によるリポートです。次回は来年3月掲載予定

中村哲さんは、西日本新聞に定期的に寄稿してた。
次回はもう無くなってしまった。

今一度、中村さんの言葉を蘇らせて、胸に刻もうと思う。

2008年 マガジン9のインタビュー記事。ぜひ読んでみて下さい。



アフガンの人々は憲法9条を通じて、親日感情を持っていたと言う。
けれど、日本が海外に軍事協力をするようになって、親日感情が薄らいで行ったと。

平和は互いの信頼の上に構築される。
信頼を裏切り続けて平気なアベには、死んでもわからんのだろう。

戦争をしない憲法が恥ずかしいと言うアベは、そんなに戦争が好きなのか?